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Alfredo ~2nd Summer Of Love 1988~

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2008年1月19日のHORIZON@UNITはなんとIbizaの伝説Alfredoをフューチャー!
まさかこんなことが実現するとは思ってませんでした、Alfredoをあまり知らない人も多いと思います、でもだまされたと思って体験しに来てください!今ダンスシーンがパーティーも音楽もフォーマットがマンネリ化している時だからこそ彼の来日は重要だと思います。
まだハウスが生まれたばかり、テクノがようやく誕生するかしないかの時代、様々なジャンルの音楽を自由にミックスしてクラブを熱狂させていたDJがいた!多分彼はヨーロッパのLarry Levinだったのでは?と思えるぐらいヨーロッパ、特にイギリスでの影響力は大きかったと思います。今年でた彼のミックスCDはその当時のプレイを再現して作ってあって、まさにバレアリック!なんでもありです。これはぜひ聴いて欲しいです。

Alfredo
アルゼンチンで生まれ、「La Capital」新聞社の映画・音楽評論家を経て、1970年代半ばにクラブ・シーン勃興前のイビサ島に上陸する。その後、1982年にDJを始め、「アムネシア(amnesia)」のレジデントDJとなる。そして、1987年の8月のある日、現在も伝説として語り継がれている、ヨーロッパのクラブ・カルチャーにとって最も重要な夜が訪れる。数名のイギリス人の若者達がヴァカンスでイビサ島を訪れ、「amnesia」でアルフレドのプレイを体験したのだ。
その若者達とは、当時まだ無名だったポール・オークンフォールド(Paul Oakenfold)、ダニー・ランプリング(Danny Rampling)、ニッキー・ホロウェイ(Nicky Holloway)、トレヴァー・ファング(Trevor Fung)、ジョニー・ウォーカー(Johnny Walker)である。

この頃のU.K.のクラブ・シーンは細分化が進み、膠着状態に陥っていたのだが、ロック、ソウル、レゲエからアシッド・ハウスや映画音楽まで一つの文脈でプレイする、
アルフレドのオープン・マインドなバレアリック・スタイルは、彼らにとてつもなく大きな衝撃を与えた。

すぐさま彼らはイビサで体験したバレアリック・スタイルをU.K.に持ち帰り、ポール・オークンフォールドは「スペクトラム(Spectrum)」、ダニー・ランプリングは「シューム(Shoom)」、ニッキー・ホロウェイは「トリップ(Trip)」と、それぞれ新しいパーティーをスタートさせた。
これらの新しいパーティーと新しいスタイルは、瞬く間にU.K.中を席捲した。
例えば、今や伝説となった「シューム」には、当初50人の客しか集まらなかったが、
1年後には毎週末クラブに入りきらない2000人ものクラウドが道端に溢れ出すという、とんでもないビッグ・ムーヴメントに成長する。

この様な状態は1987年から1989年までの間、ずっと続いた。
この3年間は、いわゆる”セカンド・サマー・オヴ・ラヴ”と呼ばれる時期と完全に一致する。つまり、”セカンド・サマー・オヴ・ラヴ”、”レイヴ/ウェアハウス・カルチャー”、”マンチェスター・ブーム”、ひいては昨今の”ディスコ・ダブ”まで、イビサに端を発する一連の出来事の引き金を引いた張本人が、アルフレドなのである。

もし、アルフレドと彼らの出会いが無ければ、現在のヨーロッパのクラブ・シーンは全く違う物になっていたであろう。

彼は正に、バレアリック・カルチャーの伝説の生き証人であり、イビサの代名詞的存在である。


ほんとにそうだと思います、そしてその時その場にはいることが出来ませんでしたが同時代に遠く離れた日本で僕は同じようになにか新しいことが起きていることを感じていました。その1989年、The Stone Roses/Stone Rosesから20周年!それもこれもAlfredoがいなければまた違ったものになっていたのではないでしょうか?

以下は自分の1989年の想い出を綴った文章、なつかしいのでまたもや再掲。

1989年、その年の冬僕はロンドンにいた。
この年はまさに奇蹟と言ってもよかった。STONE ROSESが1stをリリースし アシッド・ハウスの嵐はイギリス中を吹き荒れており、 12月のロンドンHMV,TOWER,VIRGINの壁一面にはSOUL II SOUL,808STATE, DE LA SOULそしてFOOL'S GOLDが埋め尽くしていた。
ROUGH TRADEのショップではInspiral CarpetsのCOOL AS F**KのT-Shirtsが もう少しでSold Outで、Paddingtonの駅の壁にはA GUY CALLED GERALUDの パーティーのポスターが貼ってあった。 DingwallsではFELTの解散ライブがひっそりと行われていたはずだ。
ひとりですることもなく入ったクラブでDJがプレイした
Happy Mondaysの"Wrote for luck"のVince Clarkのミックスを聴いたとたんに、 マンチェスターという言葉が僕にとってほんとにリアルなものとなった。

すべてのポップミュージックはダンスミュージックだった。
踊ることは、ほんとに新しい扉を開いてくれた。
John Squireがどこかの雑誌のインタビューで言っていた
『主役はオーディエンスなんだ』
この言葉の本当の意味を理解したのは、もっと後になってからだけど 今思えば90年代を通じてヨーロッパのダンスミュージックは全て、 この前提の上に進化してきたように感じる。


90年、次々にリリースされるシングルは一枚一枚がほんとに輝いていた。 みんな踊ることに夢中になっていた。
この時期に様々なアーティストによってなされた試みが、 どんどんダンスミュージックを進化させていく様子は 本当にエキサイティングだった。 確か、この年の夏にQUATTROで行われたMANCHESTER NIGHTで来日した Paul Oakenfoldは808STATEのウォームアッププレイで一曲目に"KINKY AFRO" をかけていて、一時間後には見事にアシッド・ハウスへと流れていった。
あれこそがきっとバレアリックとよばれるサウンドだったにちがいない。

91年になると、僕はこの流れを完全に自分の世代にとってリアルタイムの そしてほんとに強力なムーブメントだとはっきり意識していた。 どうやってこの流れに参加しようか考えてた毎日が懐かしい。 そして僕は wonder release をスタートさせた。

結局今でもその延長にいるとしか言えないし、 僕の人生を変えたのは60年代のMODSでも70年代のPUNKでもそして 80年代のNEW WAVEでもなく、この90年代のムーブメントだった。
もちろんKINKSもJAMもSMITHSも大好きだけど、でも 10年たった今でもMADCHESTERは僕の中ではリアルタイムに生きている。

だからこそVENUS PETERもSECRET GOLDFISHも ROSESやMANDAYSと本当に同じぐらい重要でカッコよかった。
紀平君はすばらしいDJだったし(今でもね)、ほんとに完璧だった。
MDMAがなくてもどんなパーティーより(多分ね)盛り上がっていたのは その音楽が伝えようとしていたメッセージに敏感だったからと思うし、 きっとそのマジックを信じていたからだろう。
 
踊り続けたその先に、いったい何があるのかはわからないけれど
この10年間の中で感じた最高の瞬間は、いつも踊っているときだった。


でもきっと一番楽しんでいるのはそのDJ自身なんだけどね。
ラストナンバーは" THIS IS THE ONE "、この曲がすべてを語っている。


HORIZON presents
Alfredo World Tour'08〜The Original Sound of Ibiza

19th Jan 2008@UNIT

adv./With Flyer 3000yen/Door 3500yen
23:00 OPEN&START

UNIT:
DJ:
Alfredo
KENJI TAKIMI(CRUE-L/LUGER E-GO)
YODA (HORIZON)

VJ:KENJI KUBO

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