今年はめずらしく2人のDJをちゃんと聴くことができた、とくにSashaはほんとに7〜8年ぶり。海のパーティーは素晴らしくて、それが千葉の海でもやっぱり特別なものがあった。思えば1996年にはじめてやったビーチパーティーから15年、月日の経つのは早い。あの頃パーティー中心の生活の中でダンスミュージックが決定的に他の音楽と違うと思ったのは身体を動かして、DJのプレイやその時のフロアに自分自身をシンクロさせて感じ、考えたことがただ頭だけで考えたこととあまりにも違うことに感動してこの体験のその先へと飛び込んでいった。
そう、イマジネーションの広がり方と思考の速度、そして得られる確信があまりにもリアルだったことにほんとに驚いた。夜明けの美しさや海風、もちろんクラブでのあのたとえようのない熱気。
今回のSashaで気がついたのは彼の一貫してかわることのない彼のメッセージ。
それは自分自身をとりまく現実や眼の前に広がる世界に対する強力な"No"だった。なぜ常識として受け入れているものを疑ってみない、なぜ眼の前の現実をそうやすやすと受け入れることができるのだという強い懐疑。これこそが彼のビートの意味だった、あの海岸での前半の一時間の間に何度かあったフロアが湧いた瞬間にそこで踊る人たちにある共通の気持ちがあったように思えてならない。それは当たり前と思っていたらなにもかわらないぞという彼の投げかけだった。そんなことまで考えさせてくれ、自分の身体を動かし踊る体験のリアルさを思い出せてくれた。なぜこんなにもパーティーに惹かれてしまうのかもう一度考えてもいいころだろうな。
そういう意味では4月のDigweedも最高だった。彼のSashaとは違ってブレのないビートはまるで幾何学模様に滲みながら様々な景色を見せてくれるけれど、その中身は受けてが想像していかなければならない。だからこそ踊る意味を問われているともいえる。これこそがほんとの意味でのトランスのはず。
そんなことを考えさせてくれるDJはやはりそれ程多くない。もちろんTenagliaはその先までいける。
でも振り返って、じゃあお前のDJはなんなんだと言われると多分それはOakenfoldがよかった時代に持っていた、あのエモーショナルに疾走しながら辿り着く大きな自己肯定なんだと思う。対世界ということではなく、認識という観念でもなく自分自身の気持ちを受け入れることのドラマ。ほんとに数回だけどそんなプレイを出来た時に自分でも実感できたカタルシスは忘れない。
TiestoやPVDのビートの力強さゆえに多くをオーディエンスにゆだねることのないスタイルの良さもFerryやArminのビートよりもエモーションを劇的に昇華させるスタイルもそれぞれにダンサーを熱狂させる。でもどのDJも踊らないとなにも理解することは出来ない。
もう俺と同世代はすっかりフロアからいなくなってしまったけどれどまだまだ楽しみながら気付くことはあるだろうな。
そう、imagination, use like a weapon
そしてfuture is unknown
今年も夏がやってくる。
